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秋田地方裁判所 昭和37年(ワ)112号 判決 1974年4月15日

原告(選定当事者) 安田善朗

右訴訟代理人弁護士 松方正広

同 唐沢高美

同 内藤庸男

被告 国

右代表者法務大臣 中村梅吉

右指定代理人 叶和夫

<ほか六名>

主文

原告の請求はこれを棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

(当事者の求めた裁判)

原告

原告及び選定者が別紙(一)の朱線で表示された範囲内にある杉立木について一〇分の七の割合の分収権を有することを確認する。

訴訟費用は被告の負担とする。

被告

主文同旨

≪以下事実省略≫

理由

一、本件地域内の山林即ち別紙(一)秋田営林局作成林班図に朱線で表示された地域内の山林が、旧藩当時別紙(二)記載の様な名称で呼ばれた地域であって、旧藩時代御直山(御留山)として、佐竹藩の直接の管理下にあったものであったが、明治初年の版籍奉還に際し官有に編入され、現在国有林となっているものであり、本件請求の対象物となるものは、本件地域内に現存する樹令一〇〇年以上の杉立木であることは当事者間に争いがない。

二、そして、右佐竹藩においては、正徳二年(一七一二年)より造林木について成木の上、これを藩と造林者が一定の割合で分収する分収林制度を採用して造林を奨励したこと、並びに右分収割合は、当初藩が五割、造林者が五割取得するいわゆる五公五民の割合であったが、享和元年(一八〇一年)には三公・七民の割合となったものであることは当事者間に争いがない。

しかしながら、原告は右佐竹藩の分収林制度のもとにおいては所謂民有林である郷山・符人山であると藩が直接管理経営する御直山であるとを問わず、植立をなしたもののみならず自然生立林であっても植立林であってもその山林の見継・取立をなしたものにも分収の権利を付与していたものである旨主張し、被告は、藩が直接管理経営する御直山については、願出により林役の調査を経た上場所を指定して植栽を允許され林帖に登載された場合のみ、藩と植栽者が一定の割合で分収したものであった旨主張し、抗争しているものである。よって按ずるに、

(一)  成立に争いのない甲第四号証の三「正徳三年(一七一三年)の林取立役定書」には、「村々深山並びに里山・野場残り無く古林・新林山守ともに此度林役人支配に仰せ付けられ候」故に「此末村々草飼場の外、郷人望み次第新林遠慮なく相立たせるべく候」旨並びに「杉・檜・桂・栗・松等の植立候木は郷人に半分下げ置かるべく候、雑木新林は用立て候節林立て候者に山半分相渡し申すべく候、剪跡段々林に相立て候はば右残山半分又々下げ置かるべく候」旨等の記載があり、

成立に争いのない甲第四号証の四「宝暦一二年(一七六一年)の林取立役定書」には、「山林の儀は材木・薪炭に用意候ばかりに之なく、第一田畑の根元随って百姓共勝手にもなり大切な事に候処、近年伐り尽くしに相成り候得共、古木の通り取り立てかね候儀は林取り立ての御本旨を取り失ひ、大方は公儀ばかりの様に存じ百姓手前の勝手に成り候事をば存せず取り立てに精入りかね候に相聞え候、不心得の儀に候、さ候へば御国中一統に相掛り重き事に候故、林取り立て候古法を相糺され云々」の旨のもとに、再び「村々深山並に里山・野場残りなく、古林・新林山守共に各支配仰付けられ、此末村々草飼場其のほか郷人の望み次第に各吟味の上御本方之申し立て新林に立て置かるべく候」旨造林を奨励する記載並びに「古来定め置かれ候通り檜・栗・松等は取り立て候者に半分下し置かるべく候」旨及び「村々差し障りこれなき場所へ杉植立て、右杉成木の上此末立主之大小取り合せ半分下し置かるべく候」旨等の記載があり、

選定者柴山円治本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第五号証「享和元年(一八〇一年)産物方作成の文書」には、「郷山、寺社とも青木植立ての儀は半々の御割合を以て下し置かれること先年よりの定めに候へども、向後七・三の割合に相改め七分は林主に下げ置かれ三分は召上げ候」旨並びに「御直山・御留山の内へ願いによって吟味の上仰せつけられ候分は御割合右同断」の旨及び「畑添え・屋敷添えは古来の通り御割合無しに下げ置かれ候」旨等の記載があり、

成立に争いのない甲第四号証の六「文化八年(一八一一年)の林取立役定書」には「郷村(御林の誤記と考えられる)・符人林・寺社木共青木半々の御割合をもって下だされ候儀、先年よりの御定めに候へ共、向後三・七の御割に相改められ七歩は林主へ之を下され、三歩は召し上げらるべく候」旨並びに「御直山・御留山の内へ願ひによって御吟味の上植立仰せつけられ候分、御割合右同断」の旨及び「畑添・屋敷添は古来の通り御割合無く下げらるべく候」旨等の記載があり、

成立に争いのない甲第四号証の五「明治四年(一八七一年)の御山守方日記」には、「符人林・郷山共青木是れまで三・七の御割合にて七の分は符人へ下し置かれ候へども、以来弛み置かせられ、二・八の御割合にて八の分符人に下げ置かせられ、二の分御引上なし置かれ候」旨等の記載がある。

(二)  そして、農商務省の検閲印影部分の成立については争いがなくその余の部分は選定者柴山円治本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第八号証「農商務省明治三六年四月一日第七五四九号検閲の証印が押捺されている覚と題する文書」には、御山守円治の覚書として、享和二年(一八〇二年)三月付で「男鹿安善寺焼山の内、柳沢・新林・曲ヶ山台・右の個所の願い申上げ候ところ、御任せに相成り外に男鹿村々社地・社外成共、見込みの場所御任せに相成り申し候、但し杉植立ての儀は成木の上三・七割合の定」の旨及び文化六年(一八〇九年)六月付で「一、植立杉一一万〇、二五〇本、是れは享和年中(一八〇一年乃至一八〇三年)より文化六年(一八〇九年)まで植立分、内六万本任地三ヶ所へ自分物入れ植立」の旨の各記載がある。

(三)  これらの書証並びに前記争いのない事実によって、これをみると、佐竹藩は正徳年代(一七一一年乃至一七一五年)より藩が直接管理経営していたいわゆる官有林地である御直山・御留山以外の郷山(村有林)・符人山(個人有林)等いわゆる民有の山野をも林役人の支配下におき、積極的・計画的に林業政策をすすめると共に、これを藩と領民とが一定割合で分収する分収林制度を採用し領民に造林を奨励してきたものであるが、

(イ)  その造林をせしめるについては、

郷山・符人山等いわゆる民有の山野については、村々の草飼場など農耕に差し障りのある場合を除き、希望次第に(林役において差し障りの有無を各吟味することはあっても)造林せしめ、藩が直接管理経営しているいわゆる官有の御直山・御留山等の林地については、領民のその旨の願出を林役において吟味し、允許の上場所を指定し、その者の負担で造林せしめたものであること、

(ロ)  その分収については、

郷山・符人山・寺社山等の山野における造林の場合、杉・檜等青木を私費をもって植立たものに対しては成木となった時に一定割合を藩が徴収し残りをそのものに収得せしめ、自然木たると植栽木たるとを問わず雑木を取立てたものに対しては輪伐により半分宛ずつ(結局は全部)を収得せしめることとしたものであり、

御直山(御留山)等藩の直接管理経営する山野における造林の場合、藩の允許を受け許可された場所に私費をもって杉・檜等青木を植立てたものに対しては成木となった時にその木の一定割合を藩が取得しその余をその者に取得せしめることとしたものであること、

(ハ)  そして、右の分収の割合は、

郷山・符人山・寺社山等の山野内に取立てられた雑木については右の如くその全部を取立主に取得せしめ、又畑添・屋敷添に植立られた青木についてもその植立主にその全部を取得せしめたものであり、

郷山・符人山・寺社山等の山野に植立てられた青木についても、御直山等藩が直接管理経営している山野に藩の允許を得て私費をもって植立てられた青木についても、分収林制度を採用した正徳年代(一七一一年~一七一五年)以降その五分を藩が取得し、その五分を植立てた者に取得せしめたもので、宝暦年代(一七五一年乃至一七六三年)以降も又同様であったが、享和年代(一八〇一年乃至一八〇三年)、文化年代(一八〇四年乃至一八一七年)にいたって、これを藩がその三分を取得しその七分を植立てたものに取得せしめる建前に変更され、更に明治四年(一八七一年)にいたって、郷山・符人山等に植立られた青木についてのみ藩(国)がその二分を徴収し、その八分を植立てたものが取得する割合に変更されたものであること

等の事実が認められる。

そうすると、佐竹藩の分収林制度は、享和年代(一八〇一年乃至一八〇三年)以降においては、藩が直接管理経営する御直山(御留山)等の林地にある杉・檜・松等の青木については、願いにより(林役の吟味を経て)藩の允許を受け定められた場所に、私費をもってこれを植立てたものに対してのみ、その植立木が成木となった時にその七分を取得せしめたものであることがうかがえるものであり、単に、麓郷の故によっては分収の権利を与えられるものでなく、又麓郷としてその監守・保護をなしたにとどまるものにも分収の権利を付与されたものではないことがうかがえるものである。

(四)  そして、このことは、廃藩置県より旬年を経ざる頃である明治一三年一二月二八日付の秋田県の布達である成立に争いのない乙第七号証の二の第一条に「従来官林部内ヘ旧藩中許可ノ上夫々ノ約束ヲ以(何官何民或ハ拝借地等)人民自費ニシテ杉・・漆等ノ樹木ヲ植付置其立木現ニ存在シテ将来ト雖亦其約束ヲ履行スルニ足ル可キ証拠書類ヲ有シ其立木ノ幾分ハ人民所有スヘキノ道理アルモノハ悉皆調査ノ上書出スヘシ」とあり、第二条以下にも「従来人民自費ヲ以植立タル樹木現ニ官林地内ニ存在スト雖モ、云々」、「(植付ノ許可ヲ得テ其証書ヲ所持スルモ実際植付サルノ類)」「旧藩中許可シタル官林地内ノ植立木云々」等々の記載があることからも推認し得るところである。

(五)  もっとも、原本の存在及び成立に争いのない甲第六号証である明治三六年一一月二日宣告された秋田県山本郡種梅村梅内を原告とし、農商務大臣を被告とする「行政裁判所明治三五年第二八号不当処分取消立木下戻請求事件の判決書」によれば、行政裁判所は原告種梅村梅内の「旧梅内村は御直山の麓郷であったところ、御留山である本件地域内に私費をもって植立をなし、その後藩の命令によりその見継・取立をなしたものであるところ、旧秋田(佐竹)藩の林制に於ては植立を為すか又は藩の植立たると人民の植付けたると自然木たるとを問わず之に対し見継・取立を為したる場合に於ては熟れも三官七民の割合を与ふべきもの」であったとの主張に対する被告農商務大臣の「見継・取立とは単に監守・保護する趣意に過ぎずして秋田藩に於ては見継・取立を為したる場合は分収を受くべき権利なく」との旨の主張をしりぞけ、「旧藩の制度に於ては山林に対し見継・取立を為したる場合に於ては分収の権利ありと認めざるを得ず」との旨判示して該事件係争「区域内に於て下戻を許可したる区域を除き其他の杉立木十分の七を原告(種梅村梅内)に下戻すべし」との判決しているものであることが認められる。

そして、右判決が「旧藩の制度に於ては山林に対し見継・取立を為したる場合に於ては分収の権利ありと認めざるを得ず」とした理由は、右甲第六号証の記載によれば、該事件における甲第一三号証「宝暦一二年秋被仰渡個条」は旧秋田(佐竹)藩の林制の定めであり、これには「杉・檜等取立候者に半分下し置かるべく候」とあって特に見継・取立の記載はないが、該事件における甲第一四号証には其村見継に仰付られ云々杉檜の分は半々御割合にて下さるべく候とあって、見継・取立に対し半々の割合を与うべき事実あるに参照すれば右甲第一三号証には単に取立をも包含せられたるものとは言はざるを得ず、というにつきるものである。

しかして、該事件の甲第一三号証「宝暦一二年被仰渡個条」はその記述よりすれば本件の甲第四号証の四「宝暦一二年の林取立役定書」と同一内容のものと推認されるものであるが、該事件の甲第一四号証はその記述よりみて旧梅内村(種梅村梅内)に関する文書で、同村が杉・檜について一定割合で藩と分収することになっているものとうかがえるものの、その作成年代等を始めその具体的内容は明らかではない。

しかしながら、

(イ)  本件甲第四号証の四「宝暦一二年の林取立役定書」の前記行政裁判所判決の前記記載相当個所をみると、「古法を相糺され」との前提のもとに「一、古来定め置かれ候通り檜・桂・栗・松等は取り立て候者に半分下し置かるべく候」とあって、その「古法」「古来定め置かれ候通り」とは前述の如く「正徳三年の林取立役定書」(甲第四号証の三)を指すものと考えられるものであるところ、右「正徳三年の林取立役定書」には「一、杉・檜・桂・栗・松等の植立候木は郷人に半分下げ置かるべく候」とあるので、杉・檜等の植立木についてはその植立てたる者にその半分を取得せしめる趣意と解されるものであるから、前記「宝暦一二年の林取立役定書」の該個所も同様に解すべきものであったこと、

(ロ)  「取立」なる文字は、前記「正徳三年の林取立役定書」(甲第四号証の三)同「宝暦一二年の林取立役定書」(甲第四号証の四)・同「文化八年の林取立役定書」(甲第四号証の六)・同「明治四年の御山守方日記」(甲第四号証の五)等に「(林)相立たせ」「林立て」等の文字と共に使用・記載されているもので、広義においては植栽の方法たると自然生木の育成たるとを問わず造林を意味するものと推認し得るところであるが、杉・檜等のいわゆる青木についての分収に関しては、前記「宝暦一二年の林取立役定書」において「取立候者に半分下し置かるべく候」と使用するのみで、その余の前顕甲号各証あるいは成立に争いのない甲第四一号証「寛政元年(一七八九年)の町触」では、いずれも造林の一方法である「植立」なる文字を使用し、特に藩が直接管理経営する御直山等に関しては「植立」なる文字のみを使用し、「取立」なる文字と区別して用いられているものであること、

(ハ)  「見継」なる文字は、例えば証人伊藤裕の証言により真正に成立したものと認められる甲第二号証の二「秋田郡男鹿山略図裏書」には、「かねて見継致し、従者等紛入り候はば山守同然に防ぐ申すべく候」、「向後両村にて見継・山中御用共に御材木方え相かかり候諸御用相勤むべく候」、「右三ヶ村之見継仰せ付けられ、此の末従者など紛れ入り候はば山守同然に防ぎ候様に仰せ渡され候」等と使用され、原告安田善朗本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第七号証「延享三年(一七四六年)三月の能代奉行書付」の追加書中にも「御材木山麓の村々肝煎・長百姓・郷人共まで山中見継候はば御山守同前に心掛け何方も先年より相勤め仰渡され候て林役人支配の節も同前の儀、此の末猶以て郷中御山守同前に見継ぎ申すべく事」と使用されているものであり、その意義は前顕甲第四号証の五「明治四年の御山守日記」の「其方共の儀は専ら山林守護取立候儀専任に候につき」との記載並びに同甲第七号証「延享三年七月の能代奉行書付」中の「右五ヶ村肝煎共山守兼役仰付けられ候間有難く存じ候て御山守は申すに及ばず、郷人どもまで、山中油断なく急度吟味致すべく候」との記載等からすれば、盗伐の防止等山林の監守・保護を意味していたものであると推認されるものであり、(造林とは当然植付のみをもって終了するものではなく、その後の手入れを含むものではあるにしても)その用法よりみれば、撫育に重点をおいた意義に使用されていたものとはうかがえないものであること、

等からすれば、前記行政裁判所の判決(甲第六号証)引用の甲第一三号証・第一四号証の表示部分のみをもってしては佐竹藩の林制においては、単にその見継をなしたもの、又は植付をなさざるもその取立をなしたものにも藩が直接管理経営する御直山内に植栽されている杉・檜等の青木について、分収の権利を付与したものであると認めることはできず、右判決が右の証拠・理由以外のいかなる証拠により、いかなる事実を認定し、いかなる理由で佐竹藩の林制を同記載の如く認定したか明らかにしていないので、右判決の存在は当裁判所の前記の認定を左右し得るものではない。

三、そこで、前述の様な佐竹藩の林制のもとにおいて、安全寺村が、当時御直山(御留山)であった本件地域内の杉立木について、分収の権利を付与されていたか否かを検討する。

(一)  前顕甲第七号証「延享三年七月の能代奉行書付」・同甲第二号証の二「秋田郡男鹿山略図の裏書」及び選定者柴山円治本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第一六号証「文政六年の山守重左衛門・佐太郎より藩の御物書に対する文書」・甲第一七号証「文政七年の御山守佐太郎に対する文書」を綜合すると、

(1)  安全寺村の山林は、延享三年(一七四六年)能代奉行の支配下の御留山(御直山)となり、同村はその麓郷とされたものであるが、更に宝暦六年(一七五六年)には従前真山神社・本山神社等が見継していた山林の一部もその担山の一部とされたものであること、

(2)  そして、その結果、安全寺村は、右甲第二号証の二「秋田郡男鹿山略図の裏書」の「右麓郷に仰せ付けられ候に付左の通り仰せ渡され候」、「一、当高一三七石一斗一升九合・安全寺村上り知、右五斗米の内一〇石の内三斗宛御免なし置かれ二斗宛上納仰せ付けられ候」、「一、当高六一八石五斗八升五合・滝川村、内三四石二斗二升御郷役御免高、上り地給付分共に是迄の通り、残高五八四石三斗九合・上り知」、「右の通り両村五斗米の内御容赦下され候間」との記載並びに「殊に右の人足村々より相談し日帰り相成らざる処は向寄りの方え泊り候て、右御用相勤め申し候えども、はかどり申さず候間何卒人足扶持方下されたく、村々より諸人足相勤め候様になし下たく云々」との記載、「但し右山の内御獄山・おわかひ山・大滝山・中長根沢・行人沢・柳仮戸沢・笹台、ほつき沢右八ヶ所並に惣山より安善寺郷山が柴・笹を伐り取る儀は前々の通り出すべく候」との記載等の如く、貢租の軽減・扶持米等の給付・笹・柴等の採取の許可など受けて、本件地域内に山林等の麓郷として、同号証の「御材木諸御用、山中従者紛れ入り候はば山守同然に防ぎ申すべく候、能代御材木役人逗留の節御旅籠代下し置かれ候へども、往来の伝馬、歩夫不時の御用御材木方え相かかり候御用も両村(安全寺村、滝川村)高割りにて相勤むべく候」との記載の如く、能代におかれた木山方の行う造林等に従事し、その山林の監守・保護をなし、当事者間に争いのない文政六年(一八二三年)及び同七年(一八二四年)の右安全寺村山内の火災に際しては、出動して消火にあたる等常時並びに臨時の役務をつとめていたものであること、

等の事実が認められる。

(二)  ところで、本件地域内の山林は寛政一一年(一七九九年)野火のため類焼・焼失したこと、右安全寺村の村民がその跡に享和元年(一八〇一年)より文化六年(一八〇九年)にかけて五万〇、二五〇本の杉木を植立られ、八〇万本の植替杉苗木が漸次植継がれたことは当事者間に争いがないところであり、右事実と、享和・文政年代の旧安全寺村山の御山守円治・佐太郎の作成にかかるものと推認される前顕甲第八号証「農商務省明治三六年四月一日第七五四九号検閲の証印が押捺されている文書」並びに右御山守円治が所持していたものと推認される選定者柴山円治本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第一〇号証の一・二「絵図面」と「その裏書」及び甲第一三号証「覚と題する文書」を綜合すると、

(1)  本件地域である安全寺村山の山林は、寛政一一年(一七九九年)類焼焼失したため、同地内に、享和年代(一八〇一年乃至一八〇三年)より文化六年(一八〇九年)迄の間に、合計一一万〇、二五〇本の杉木が植付けられ、合計八二万三、八〇〇本の杉苗木が植継がれたこと、

(2)  そして、右甲第八号証の「御役菊地山三郎様見分なされ候時、野山同様に相成り其節焼け荒れのところ、杉植立の儀願立て候、直々植立仰せつけられ」「男鹿安全寺焼山の内、柳沢・新林・曲ヶ山台、右の個所に願い申し上げ候ところ、御任せに相成り、ほか男鹿村々社地・社外地成り共見込みの場所御任せに相成り申し候。但し杉植立の儀は成木の上三・七割合の定」との記載の如く、当時の御山守円治が本件地域内の柳沢・新林・曲ヶ山台の三ヶ所に自己の費用で杉の植立を願い出、藩の允許を得て、右甲第八号証の「内六万本任地三ヶ所え自分物入れ植立」「二万三、八〇〇本任地三ヶ所漸次植継分」との記載の如く、前記植付分一一万〇、二五〇本の内の六万本は右御山守円治が自己の費用で本件地域内の前記三ヶ所に植付けたものであり、前記植継分八二万三、八〇〇本の内の二万三、八〇〇本も又右御山守円治が前同様自己の費用で前記三ヶ所に植継いだものであること、

(3)  その余の分は、右甲第八号証の「同五万〇、二五〇本能代方より御山所に取担い仰せつけられ植立分」「八〇万本取担い植継分」との記載及び前記甲第三号証の「男鹿安全寺一一年以前末年中類焼の跡え今年御山守円治杉植え立て仕り候」との記載よりすれば、右御山守円治がその職務上植付・植継いだものとうかがわれ、安全寺村郷民が右植付植継作業に従事したものとは想像されるものの、安全寺村又はその郷民がその費用で植付・植継いだものとは認め難いものであること

等の事実が認められ、右事実よりすれば、結局安全寺村が、前記佐竹藩の林制下において、本件地域の杉立木について植立により分収の権利を取得していたものとは認められず、右認定を左右するに足る証拠はない。

(三)  そして、他に、分収権を有するものから譲渡を受けた等の事由によって、安全寺村が本件地域内の杉立木について、分収の権利を取得していたとの主張はなく、その立証もない。

(四)  そうすると、安全寺村の本件地域内の杉立木に対する分収の権利の取得事由は認めることはできないものであるが、その取得事由・時期はさておくとしても旧藩当時安全寺村が本件地域内の杉立木についての分収権にもとづき分収を受けていたか否かについて判断することとする。

(1)  選定者柴山円治本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第一一号証「御山守書留書」(文政六年((一八二三年))の林役定書)は、その記載よりみて林役・本山方吟味役等より男鹿安善寺村御山守重左衛門・佐太郎に対する命令を書留めたものと推認し得るものであるが、「男鹿の儀は一躰懸隔候地所のため、同役共御用序も稀にて、植立林拝領願指し出す村々並に符人共迷惑の趣に相聞え自然植立不出精に相成り候ては、山林御取り立ての御本旨に戻り候事故云々」との記載があり分収木の伐採・取得等についての出願手続・事務処理等を簡略にし、もってこれにより造林を増進せしめようとしたものであることがうかがえるが、その記載よりすれば、同号証の趣意は右の限度にとどまるものであり、

前記柴山円治本人尋問の結果真正に成立したものと認められる甲第一四号証「覚と題する古文書」は、その記載よりみて木山掛加藤清右衛門・田名部曽兵衛より文政四年(一八二一年)男鹿安善寺村御山守重左衛門・同佐太郎に対する命令書と推認できるものであるが、これとしても、その原因のいかんを問わず拝領を受けた拝領木の伐採・搬出に関する指示であり、

証人目黒邦之助の証言により真正に成立したものと認められる甲第二二号証の一「覚と題する書面」、同号証の二「覚と題する書面」、同号証の三「安政四年(一八五七年)三月二六日付の書面」によれば安政年間から慶応年間(一八六五年乃至一八六七年)にかけて目黒周兵衛(幼名亀助)は男鹿の御直山の御山守であったものと認められるが、この事実と右証言により同人が作成したものと推認される甲第二〇号証の一乃至三「慶応三年(一八六七年)の日記」には、「船木伐跡・拝領木二〇本伐跡に極印を入れ、郷蔵用に二五本を木分け」をなし、安全寺村山林で透し伐り(間伐)のため「二、〇〇〇本御木分致し」た旨の記載があるが、その払下の事由の記載はなく、又間伐は(その間伐木を麓郷に払下げたとしても)山林の育成上当然のことでもあり、

これらによって、安善寺村が本件地域内の杉立木についての分収権にもとづき、その分収を受けていたものと認めることはできないものであること、

(2)  そして、更に証人目黒邦之助の証言によって真正に成立したものと認められる甲第一五号証の一乃至一五「木分帳」の記載並びに右証言によれば、男鹿の御直山の山々の御山守目黒周兵衛が嘉永六年(一八五三年)以降御直山である安全寺村山林から安全寺村の郷中又はその郷人(村民)に木分したことが認められるのであるが、そのうち、

① 嘉永六年(一八五三年)六月二〇日「安善寺」「喜蔵」に木分した杉元木一五本(甲第一五号証の二)

② 安政元年(一八五四年)正月一八日「安善寺村」「治左衛門」に家木として下付したため木分した杉元木一〇本(甲第一五号証の三)

③ 前同日「同村」「善四郎」に交付したため木分した杉元木一〇本(甲第一五号証の五)

④ 安政三年(一八五六年)六月一七日「安善寺村郷中」に交付した替木三本(甲第一五号証の一一)

⑤ 前同日「武助」「惣右衛門」「清兵衛」「太治兵衛」に交付した替木六本(甲第一五号証の一二)

については、(その理由は明らかでないが)運上金の記載がないものの、

嘉永六年(一八五三年)八月一二日「安善寺村」「郷中」に宮普請用に下付したため木分して杉木二〇本については三三貫文を、(甲第一五号証の三)

安政元年(一八五四年)四月二五日「安善寺村」「郷中」に交付したため木分した杉木一本、「安善寺村」「勘之丞」に交付したため木分した杉木二〇本、「安善寺村」「想兵衛」に交付したため木分した杉木七本、については合計一三二貫二〇〇文を、(甲第一五号証の六)

安政元年(一八五四年)七月一四日、「安善寺村」「府人佐治兵衛」に交付したため木分した杉木一五本については六四貫五〇〇文を(甲第一五号証の七)

前同日、「安善寺村」「府人拾壱郎」に交付するため木分した杉木七本については二九貫二〇〇文を、(甲第一五号証の八)

前同日、「安善寺村」「府人十一郎」に交付するため木分した杉木一五本については六六貫五〇〇文を、(甲第一五号証の九)

前同日、「安善寺村」「善八」に交付するため木分した杉木二〇本については八七貫文を、(甲第一五号証の一〇)

安政三年(一八五六年)五月一日、「善四郎」に家普請用に下付するため木分した杉木二五本については二〇六  貫文を、(甲第一五号証の一三)

それぞれ運上金として徴しているものであることが認められ、

そして、この運上金は、その額よりみれば、下付・交付するための手数料とみることは無論、藩自身の分収率(三分)の対価とみることもできず、下付・交付された杉木の対価と認めるのが相当であるから、右各杉木はいずれも安全寺村又はその村民が本件地域内にある杉立木に対する分収権にもとづいてその分収として取得したものではなく、対価を供し買受けたものというべきであり、従って、これをもって安全寺村が本件地域内の杉立木に対する分収権にもとづきその分収を受けていた証とすることはできないものであること、

(3)  そして、他に安全寺村が本件地域内の杉立木について、旧藩当時分収権にもとづきその分収を受けていたとの事実を認めるに足る証拠はないこと、

等からすれば、安全寺村が、佐竹藩の林制のもとにおいて、本件地域内の杉立木についての分収権にもとづきその分収を受けていたものと認めることはできない。

しかりとすれば、安全寺村は、佐竹藩の林制のもとにおいて、御直山であった本件地域内の杉立木について、植立又はその他の事由により分収の権利を取得していたものということはできず、又右の杉立木についての分収権にもとづきその分収を受けていたものであるということもできない。

四、そうすると、安全寺村が旧藩当時本件地域内の杉立木について分収の権利を得ていたものであり、その分収権にもとづき分収を受けていたものであることを前提とする原告の本訴請求は、その余の点を判断するまでもなく理由がない。

五、よって、原告の本訴請求はこれを棄却することとし、訴訟費用については民事訴訟法第八九条を適用して主文の通り判決する。

(裁判長裁判官 篠原昭雄 裁判官 丸山昌一 裁判官石井健吾は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 篠原昭雄)

<以下省略>

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